塩田平札所めぐり
何という塩田人の知恵なのであろうか。あれほどまでに皆が渇望していた、四国八十八ヵ所霊場の巡礼が、この塩田平で出来ることになったのだ。
それは、塩田の人の発想で四国霊場の八十八仏をお迎えするという、大事業を達成出来た結果であった。
この地に住む人たちにとって、四国はいかにも遠隔の地、巡礼に行くには、とほうもない時間と金がかかる。望んでも実現出来るものではなかったに違いない。
農民は皆、日頃の貧しい生活に何の支えもなく、神仏にすがることで来世への希望を抱いて田畑を耕していたことであろう。塩田平の下之郷に住む次郎兵衛は考えた。四国まで出かけるなど思いもよらないことだ。
でも誰もが望んでいることなのだから、いっそ四国霊場の仏様をこちらにお迎えしたらどうだろう。そうしたら、皆が札所めぐりが出来き、極楽往生できるではないか。
そうだ、村の庄屋に話してみよう。最初は相手にされなかった話が、次郎平衛の懸命の嘆願に動かされて、塩田平の村々の庄屋にはかられることになった。
とほうもない話に驚いた庄屋たちも、だんだん真剣に考えるようになって、何度かの会合の末、それではひとつ四国の霊場にお願いに行こうという話になった。この熱意に動かされ、八十八体仏の勧講を許され、少なからぬ費用も村々で負担しあい、仏像は京都の仏師にお願いし、晴れて塩田平の村々にお迎えすることが出来たのであった。時は元禄六年(一六九三年)のことであった。
その後二百年、明治の始めの頃の記録では、もう礼所めぐりとしての形は崩れていたようで、現在においては全くと言ってよいほど忘れ去られていた。これが再び日の目を見たのは、土地の北条家の古文書からであった。
この古文書には、下之郷の遍路堂を起点として、計二十一ヵ所の地名と寺堂、仏像の名前までもはっきりと記されていた。
これをもとに調査した現代の塩田人は、現存する寺堂、仏像によって、古文書の信憑性を確信し、塩田平に八十八体仏が勧請されて三百年目に復興された。
これは江戸時代の塩田人の夢を再びというロマンであると共に、近世の混迷に生きる現代人に贈る、塩田平からの心のこもったプレゼントとして受け取っていただければ幸いです。
「塩田平を歩く会」
2017年札所めぐりチラシ