別所温泉源泉の歴史(信州最古の温泉、皇室が選んだ日本三御湯の1つ)
別所温泉の源泉の歴史は古く、記録で確認できるのは825年(平安時代)からです。したがいまして実際に温泉が湧出しているのはそれ以前からということになります。
その信州最古といわれる別所温泉源泉の歴史を、別所温泉源泉史として源泉を管理する別所温泉財産区元議長、降旗康雄氏がまとめました。
はじめに
別所の温泉は九世紀になりようやく出現をみている、それ以前つまり古代別所の温泉に関する歴史をひもとくには、あまりにも資料が少ない。そこでここでは、「東山道」と「万葉集」の一端から別所の温泉を多くの人々が利用したであろうことを想像してみた。
別所温泉(七苦離の温泉)の知名度は東山道に負うところが大きいと考えられる。
近江(滋賀県)から東北までの「道」といいながら、東山道の沿線各国は中央集権の行政区となっており、多くの役人、商人、防人、旅人が往来していた。
その沿道にある別所の温泉は、これらの人々の旅の疲れを癒す憩いの温泉として、都をはじめ各地に知られるようになったものと考えられる。
多くの人々の行き来は万葉集から求めることが出来る。長短含めた歌は約4,500首といわれその世代を読み取るには格好の材料である。
万葉集は800年前後に成立したといわれ、それ以前の450年間に亘る大和を中心に東国から筑紫までの広い地域を舞台に、天皇、貴族、一般庶民までの作者による歌であり、都で編纂された万葉集に当県近隣に関する歌が取り上げられており、県内には信濃ゆかりの万葉歌の歌碑が50余基もあることは驚きに値する。
これらから当地に多くの人々が往来したことが容易に想像することができ、それが「清少納言」の「枕の草子」につながって来たのではないだろうか。
- 信濃路は 今の懇(はり)道(みち) 刈(かり)株(ばね)に 足踏ましむな 履(くつ)はけ 吾(あ)が背(せ) (保福寺峠等4か所)
- 信濃なる 筑摩(ちくま)の川の さざれ石(し)も 君し踏みてば 玉と拾はむ (千曲市等4か所)
- かの児(こ)らと 寝(ね)ずやなりやむ はだ薄(すすき) 浦野の山に 月片寄るも (上田市浦野)
- 唐(から)衣(ころも) 裾(すそ)にとりつき 泣く児(こ)らを おきてぞ来(き)ぬや 母(おも)なしにして (上田市、千曲市)(国造、小県郡住人、他田舎人大島)作 下之郷に古墳あり
- 信濃なる 須賀の荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時過ぎにけり (上田市等4か所)
西 紀(年) | 年 次(年) | 内 容 | 備 考 |
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825 | 天長2 | 別所温泉の出現を伝う 円仁慈覚大師、大師湯入浴 |
平安時代 |
826 | 天長3 | 慈覚大師北向観世音本堂創建を伝う | |
996 | 長徳2 | 枕草子―湯は、ななくりの湯。有馬の湯。玉造の湯。 ななくりの湯―別所温泉といわれる。 |
榊原温泉(三重県) 湯の峰温泉(和歌山) の説あり |
1181 | 治承4 | 木曽義仲・葵の舞―大湯(葵の湯)入浴。 |
この頃、依田城(依田氏)に滞在 |
1186 | 文治2 | 源頼朝、塩田に惟宗(島津)忠久を地頭として送り込む。 | 初代島津家 |
1234 | 嘉禄10 |
皇室が選ぶ日本の名湯9か所の内、3か所だけを「御湯(みゆ)」という称号をつけた。 別所温泉、秋保(あきう)温泉、野沢温泉 「筑摩川春行く水は澄みにけり消えていくかの峰のしら雪」 天皇御製(ぎょせい) |
日本三御湯/秋保温泉(=あきうおんせん。名取御湯。宮城県)、別所温泉(信濃御湯。長野県)、野沢温泉(犬養御湯。長野県) |
1277 | 建治3 | 北条義政―大湯―入浴。 北条湯とも言われた。 | 塩田北条氏の支配下となる。 1,333年まで続く。 |
1281 | 弘安4 | 大湯薬師堂、長命院玄斉大徳により開基 | |
1547 | 天文17 | 大湯普請 | |
1574 | 天正2 | 大湯に温泉社を創建する。大湯薬師堂の庭よりわずか上がったところに温泉様とよばれる石の祠が5基ある。その1つに玄斉霊と刻まれている。 | 大湯薬師堂上 |
1622 | 元和8 | 大湯、玄斉湯、お茶屋、藩主湯治利用施設となる。 真田氏松代へ仙石氏小諸より入封。 |
村上→武田→真田→仙石 |
1630 | 寛永7 | 旅籠屋仲間議定書(世情不穏につき、長脇差、渡世人、無宿者、悪党、風来人等の宿泊はご法度) | |
1675 | 延宝3 | 石湯屋根ふき替えーかやぶき、(かや,縄、院内、岳の尾持ち) | 院内、上手中心に村民総出 |
1693 | 元禄6 | 大湯薬師堂、四国六十六番札所となる。 | |
1698 | 元禄11 | 大湯、玄斉湯、太師湯普請の村定の覚え12ケ条制定。 御殿、御門の内―村人足は使わないこと。 御普請で別所へ来られる時は上田馬で、帰りは別所馬で送る等。 |
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1701 | 元禄14 | 藩主仙石政俊公、入浴後玄斉湯を長命湯と改称するよう指示。 | 公文書―長命湯 地元―玄斉湯 |
1706 | 宝永3 | 仙石氏から松平氏に国代えとなり上田藩へ差出帳を提出(仙石氏出石へ、松平氏出石から) 湯5か所(大湯-露天風呂あり、大師湯、長命湯、 石湯、こが湯-露天風呂) 旅舎―院内4軒、大湯16軒、 お茶屋、大湯―上田藩主の保養所 各浴場の坪数、泉質、泉温、入浴状況等報告 普請時の人足―60文/1人・1日 |
松平氏の支配となる 大湯、大師湯、長命湯は御地頭様普請 こが湯、石湯は所普請 管理は別所村民 99軒―486人(馬-67) |
1717 | 享保2 | 大湯温泉薬師に石灯篭、石仏等を立てる。 | |
1719 | 享保4 | 大師湯源泉及び浴場改修工事(4月~7月)。 藩主の命により、塩田の大庄屋、吉田七郎左衛門工事奉行にあたる。 板の厚さ沓掛山松の二寸等細かく指示、大工―山田、別所、休息所があった。 |
大庄屋―塩田22か村の庄屋をたばねる |
1742 | 寛保2 | 大師湯、院内温泉薬師堂、大洪水にて流失。 大師湯には開湯者といわれる慈覚大師像もあった。 地頭再建。 信濃では「戌(いぬ)の満水(まんすい)」とよび、死者2,800人。 関東、近畿も被害大。
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秋和、正福寺に1,000人塚建つ |
1747 | 延享4 | 大師湯、大洪水にて流失、村民、旅舎宿泊客困惑。 再三にわたる復旧工事の陳情書が出されるが藩主施行せず、せめて小屋がけでもと陳情。 大湯商人運上金にて復旧。 |
地頭様財政窮乏再建不可 |
1786 | 天明6 | 大湯、お茶屋敷総図改められる。 | |
1814 | 文化11 | 北向観音境内高台に、温泉薬師堂(医王尊瑠璃殿)完成。 | 村民寄付 |
1846 | 弘化3 | 佐久間象山、来浴。 院内に薬師講できる。 |
111戸、581人 |
1871 | 明治4 | 明治維新―廃藩置県で上田藩は上田県となり5か所の共同浴場は国有(官有地)となる。 藩主のお茶屋は競売に出される。 共同浴場は別所村民総代の名で借用。 村有地―無税地が、借地料を納めるようになった。
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管理は村の責任 |
1879 | 明治12 | 温泉修繕費予備方法が設けられる。 | 一戸30銭負担 207戸―779人 |